荻原二郎さん、日暮修一さん
 この4月は、お二人の先達とお別れすることになった春でした。
荻原二郎さんは大正4年生まれの鉄道写真家で、旧制中学のころから鉄道写真を撮り続けてきた鉄道写真の現人神(あらひとがみ)のような存在でした。
近年、鉄道廃線跡の資料として現役当時の写真を探す時には、幾度となくお世話になった方でした。

また、小学館「ラピタ」の表紙を描いていたイラストレーターの日暮修一さんも鬼籍に入られました。いつもラピタの忘年会に飄々と現れたダンディなお姿が忘れられません。

ご冥福をお祈りいたします。

以下に3年ほど前にJTBから出版された荻原二郎写真集「総天然色で見る昭和30年代の鉄道」に書かせていただいたインタビュー原稿です。


【最初のカメラはイーストマンとパール】

最初のカメラは親父に買ってもらいました。渋谷の宮益坂の上にあったカメラ店にオヤジと2人で行ってね。その頃は、学校の仲間がぼちぼち始めていた。先に持っているのがいたから。最初はベスト判のイーストマンだった。フィルムは8枚撮れた。人によっては巻き方を工夫して10枚くらい撮るのもいた。カメラも今みたいに高級なものじゃなくて案配でなんでもできる。だからネガのコマがくっついたり、なかには重なっちゃったりしてね。ぼくはちゃんと8枚で撮っていました。現像する店はありましたよ。代々木上八幡の山田っていう写真屋、新宿駅東口の地下にも写真屋があったですよ。現像料は10銭、密着のプリント代は2銭、当時の電車の初乗りは5銭でした。


そういえば学校の物理の時間に写真の現像方法を教わったです。「こんなものは何でもないなあ」って思いました。当時はMQっていう現像液がありましてね。ガラスのビンに入っていました。これが1本5銭か10銭で売っていた。もうこれでフィルム現像もできるんだって、やってみたら真っ黒にしちゃってね。フィルム現像だけはやめましたけどプリントは自分でしました。どうってことはない、押入を真っ暗にしてね、MQと定着液、デポーっていったかな。密着焼きだから簡単です。


ブローニーは昭和10年代に、パールっていうカメラが手に入ってね。ロクサンのレンズがついたカメラで、終戦後までは使っていた。フィルムはさくらが1本45銭でコダックが50銭だった。我々は貧乏だからさくらを使っていた。感度は10か15だった。だから明るいところでしか撮れなかった。絞りは、パールは解放で撮ると像が曲がっちゃうんですよ。だから柵やなんかに押しつけて絞って撮った。絞るとびしーっと写ってね。だから止まっている列車がほとんどです。


【初めての撮影、1枚目からノートに記録】


僕はあまり記録はしないほうなんだけど、写真のノートは最初からやっていましたねえ。中学3年のときから初めてね、誰におしえられたってものでもなかったなあ。だいたい写真屋から現像ができてからノートをつけていますね。項目は日にち、場所、車両の形式、カメラぐらいかな。シャッターは、当時のカメラは50とか25分の1しかなかったから。さくらで出だしているパールは100分の1があった。だから列車は止まらなかった。斜めでやっとかな。ノート今は何冊ぐらいあるんだろう、たくさんありますよ。写真の番号は全くの撮影順です。だって、友達のカメラを借りたりするでしょ。最初のノートはさすがに壊れそうになったので補修しましたよ。でもこれのおかげで記憶が曖昧になっていても、ノートをみると思い出すんだなあ。不思議なことにね。

そういえば白黒はたいていオーバーで撮ったです。今でも真っ黒な原版は多いですよ。でもちゃんと見えますから。露出がアンダーなのはどうしようもありませんな。露出は説明書に書いてあるとおりで撮れた。

最初の頃は撮影に行ってもどこでも入れましたね。そのころはカメラ持っているのが珍しい時代、許可なんかいらない。でも昭和10年をすぎると撮りづらくなってきた。私は特にカメラで困ったことにはならなかったけど、聞くと、列車の写真を撮っていて警察に2〜3日捕まって先輩が警察署にもらいさげに行ったりして。物好きで撮っているだけなのに信用しないんですね警察は。趣味で鉄道の写真を撮るっていうことが彼らには判らないんだ。 


【鉄道の仲間たち】


昔は「鉄道」っていう雑誌があってね。昭和ひと桁からありました。しょっちゅう学校の中庭にこれを広げて集まってね。学校では有名でしたよ。5〜6人。名前は、永江健、裏辻三郎、清水登、松本弘(これが熱心だった)とかが熱の入った連中で、やっているとときどき飛び込みで来る連中がいてね。中学5年でもうカメラをだいぶ持っていました。松本さんがパールを持っていて、僕もそれにつられちゃったんだなあ。でもカメラは道具だった。主役はやはり鉄道でした。その学校に暗室があって、勝手に使っていたら締め出し喰って。当時はみんな密着焼きですよ。大きくてもベスト判ですから。もちろん引き延ばし機も持っていました。やっぱり伸ばしは自分でやるからいいんですね。僕は昭和5253年までやっていた。

カラーポジは昭和29年、ネガは33年かな。ポジの方が早かった。というのも高松吉太郎さんのお宅に毎月集まってスライド上映会をやったんですよ。それに影響されましてね。私はフジとさくらでしたね。現像もメーカーのラボに持っていきました。コダックなんかは外国に送ったですね。国産のも郵便で送ったですね。フィルムの値段が現像料込みでした。できあがると郵便で送り返してきたです。ネガカラーは写真屋経由でした。ポジの方が多かった。ネガってやつは撮影しても、ベタ焼きはモノクロでやっていた。最近そんなカラーネガをプリントしたらこんな色だったかと思ってね。


【東急の思い出】


 東急車輌の工場のある金沢八景の場所は元海軍工廠のあったところで、戦後にそこを買収して車両工場を造った。最初は戦災復旧の車両から始まって車両の認可をめぐって運輸省の鉄道管理局とやり合いました。それから地方に車両をずいぶん送りました。

これが結構大変で、たとえば目蒲線の3500形を送り出す場合、いったん東横線に入って菊名から国鉄線に入れるんだけど目蒲線の運転士が「多摩川橋が恐い」と東横線を運転できなかったりしてね、ブレーキ判断とかが普段走っている路線と違うと難しいようですね。

東急本社では一時労務課に居たこともありました、電鉄会社っていうのは地味のようでも、けっこう出張がありましてね。たとえば「全国専門大会」っていうのがあるんですよ。なんの「専門」かっていうと、会議に顔出す人が決める「専門」なんだって。そういう面白い会議が各私鉄の持ち回りであるんです。

なにやるかっていうと、いろんな労務問題を話し合う。まあ、会議は1日だけですがその前後に2〜3日加えると結構あっちこっちの鉄道を撮れる。それから総務課にいたときには東急の陸上部が参加する駅伝やマラソン大会があると、その世話でついて行くんです。 

これも大いに役立った。国鉄の旅費は会社持ちで、私鉄はもうコレ(敬礼)でだいたい乗れました。そのころは私鉄の社員証でお互いにいくらでも乗れました。だから帰りに記念に切符が欲しいときも「あんたパス持っているでしょ」って売ってくれないこともありましたね。

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