STATE | ENTRY | <<new | 1 / 1pages | old>> |
|
下津井電鉄
このあいだ取材で下津井電鉄の廃線跡に行ってきました(先日の沿線で美味しいパン屋をみつけたときのこと)。いま、その原稿を書いていて古い資料を漁っていたら、むかし下津井電鉄に行ったときの写真が出てきました。 おそらく20年ほど前の、まだ現役当時の下津井電鉄の運転席。 ナローゲージの電鉄なので、車内も狭く 線路幅もこのとおり 切符の日付は昭和61年(1986年)5月27日とあります。調べるとこに日に初めて「ドラクエ」が発売されたとか。4月にはあのチェルノブイリ事故、6月にはメキシコ・ワールドカップ開催(マラドーナ五人抜きで話題になった)、11月に伊豆大島の三原山が噴火、12月には餘部鉄橋列車転落事故と、なかなか印象深い年でもありました。皆さんはこのとき、なにをしていましたか? |
|
駅事務室
|
|
20年前の羽田空港
懐かしい羽田空港の写真が出てきました。たぶん1985年ごろだと思います。 これはあのロッキード事件の主人公トライスターです。ロッキード社はこの飛行機以後民間機から手を引いて軍用機専門になりました。全日空もトライスターのRR(ロールスロイス)エンジンに懲りて、以後同社のエンジンは使っていません。オデコの非常脱出口が目立つ旅客機でした。 ターミナル前の駐車場に立つ有名な鳥居。かつて進駐軍が壊そうとするたびにタタリがあった伝説の鳥居です。今では天空橋近くに移設されています。たしかここの駐車場はすごーく安かった記憶があります。 東亜国内航空のカウンター。同社はダグラスDC9を最初に導入した会社でした。JALのMDはその名残りです。 ターミナル屋上の送迎デッキです。かつての羽田空港は建て増しに次ぐ建て増しで、送迎デッキも迷路のようになって続いていました。高校生の時は国際線も飛んでいて映画撮影中の浅丘ルリ子をみたのもここでした。 台湾の中華航空だけが羽田唯一の国際線路線でした。成田には中国民航が就航していてハチ会わせしないための配慮でした。おかげで便利な中華航空の羽田便はドル箱路線だったそうです。 搭乗カウンターです。かつての国際線カウンターの場所に並んでいました。でもここは日本航空と全日空が占領していて、東亜国内航空は正面左の隅っこにカウンターがありました。 '80年代はトライスターとDC10(手前)のワイドボディ機が覇を競ったころ、まだジェット旅客機はアメリカ製機材ばかりでした。1985年はまだバブル前で、なんとなく成長神話が信じられていた時代。 やがて航空業界の大再編がやってくるなんて思えない頃でした。 |
|
トライX
|
|
岡本喜八監督
青春時代、ぼくに莫迦なオトコたちのカッコよさを教えてくれた岡本喜八監督が亡くなりました。 「肉弾」の寺田農、「吶喊」の伊藤敏孝、「にっぽんのいちばん長い日」の天本英世 みんなキレていて凄かった そして「独立愚連隊」シリーズ!。三八式を担いで満州の荒野を行く佐藤允のニヒルなこと。 日中戦争をずっこけアクション風に描くなんて今なら恐ろしくてできるもんじゃありません 存在しなかった・・そう言い出す人もいる従軍慰安婦までバンバン登場する戦中派監督の痛快さ 「戦争なんて無意味なのよ、無意味なんだから笑っちゃおうよ」 反面、「肉弾」の大谷直子を筆頭に女を可憐に撮る監督でした。 岡本映画に教育された僕は、後年みたアメリカ映画「M・A・S・H」すら幼稚におもえたほど 荒唐無稽とリリシズムが同居する 素敵な映画を作る監督でした。 合掌 写真は旧日本軍のトーチカ、不気味な男は畏友dankichi takahashi 岡本映画をイメージして半田沢(サハリン)で撮影 |
|
田舎の駅
|